❽新居城址(にいじょうし) 出城
室町時代、板西(ばんざい)城の筆頭家老・赤沢鹿之丞(あかざわしかのじょう)の館があった。現在は石碑が面影を残しているのみである。すぐ近くに彼が造ったといわれる八幡神社がある。
❼逆瀬川(さかせがわ)
鮎喰川・飯尾川とともに、この川も氾濫(はんらん)をお越し人々を苦しめたため、流域にはあまり人が住んでいなかった。空海がこの川の辺りに、伽藍を建立して以来水害がなくなったのでこれを逆瀬川と呼ぶようになった。今は、不動西町の一部しか残っていないが、当時は不動本町の密厳寺付近を流れていた。
❻大日堂(だいにちどう)
中富川(藍住町名田付近)の合戦(土佐の長曽我部元親軍が阿波討伐のために起こした戦い)で、天正10年(1582年)に戦死した堀江籐太夫を祭ったお堂です。すぐ近くに墓もある。


❿食肉センター
明治14年(1881年)に旧名東郡高崎村鮎喰川河川敷に開設され、その後何回か移転し、昭和34年(1959年)現在地に新築移転された。現在徳島市立食肉センターとして西日本一を誇る施設となった。
❺田村館跡(たむらやかたあと)
戦国時代、逆瀬川(さかせがわ)の東方23メートルのところに田村半右衛門(はんえもん)の館があった。近くに田村神社がある。今も竹林が残り、もともとこの辺一帯は竹林であったことが偲ばれる。


➒久次米銀行跡(くじめぎんこうあと)
江戸から明治にかけて、材木と藍(あい)で栄えた阿波の豪商久次米家は、明治12年我が国では、6番目の久次米銀行(阿波銀行の前身)を設立した。当時は、三井銀行に次ぐ日本第2位の私立銀行であったが、明治33年に久次米家は北海道に移住している。吉野川の改修により家跡はなくなった。現在は徳島市北田宮1丁目の松本亀次郎さん宅に蔵の一部が移築され残っている。
❶天佐自能和気神社(あまさのわけじんじゃ)
平安時代「延喜式(えんぎしき)」(927年に作られた宮中における法令)の神名帳(じんめいちょう)に、阿波国名方(なかた)郡(名西・名東)の九座のひとつとして記録されている歴史の古い神社である。長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)の軍勢に不動地区は焼き払われるが、南新居八万神社(みなみにはちまんじんじゃ)の掛額(かけがく)と取り換えて難を逃れたといわれる。


❷密厳寺(みつごんじ)
 不動町のシンボル-お不動さん
大宝(たいほう)年間(701~703年)に、真言宗、高野派の僧・行基(ぎょうき)が諸国行脚の際、霊木に不動尊を刻み当地に安置し、その後空海(弘法大師)が伽藍(がらん)を建立して、奉安したのが密厳寺だといわれている。中富川(なかとみがわ)の合戦で焼失するが蜂須賀家政により復旧される。


➌下塚深吉(しもづかふかきち)先生の碑
慶応3年、新村(にい)村高崎(たかさき)に生まれ、明治16年から昭和6年まで約50年間、新居小学校訓導として精励された。その後も、全生涯を郷土教育のために捧げられ、慈父の如く慕われていた。昭和21年80歳で死去された。


❹南新居城址(みなみにいじょうし) (とりで)
戦国時代勝瑞(しょうずい)城の家老・堀江藤太夫国広(ほりえとうたゆうくにひろ)が守りの拠点として造ったが、中富川の合戦で焼失した。現在の八幡神社付近である。
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